今回は史上最も偉大な女性TOP10という話題です。

今のように女性の権利や地位が確立されていない時代に、神がかった活動をし、聖女のように見られた女性たち。

信念の強さ、並外れたストイシズム、驚異的な知性、そして類稀な慈愛の精神・・・

彼女たちの瞳は何を見ていたのだろう。きっと私たちにはなかなか見えていないものが見えていたのでしょう。

それでは、歴史上もっとも偉大な影響を後世に残した女性たちのTOP10です、どうぞ。

10.エメリン・パンクハースト(パンクハースト夫人 1858年- 1928年)

イギリスの婦人参政権活動家。パンクハースト夫人の活動は過激なものだった。爆弾テロなどで数度の逮捕歴がある。また10回のハンガーストライキ(断食で抵抗をする)を行った。彼女は自らの目標をほぼ達成し、1928年死去した。

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 9.ブーディカ (ボウディッカ 生年不詳 – 60年/61年?)

ブリタニア(イギリス、ブリテン島)の一部を治めていたケルト人イケニ族の女王。当時ローマ軍に侵略されていたが、ブリテン島の数多くの部族を纏め上げ、ローマ軍に反乱をおこした。植民地とされていた地域を次々と攻略し、また市制が敷かれ繁栄していたロンドンも破壊し、ついにローマ皇帝ネロは軍の撤退を決断した。

その後の歴史でブーティカの存在は忘れられていたが、ルネサンス期に歴史書が発見され、またヴィクトリア朝時代には女王ヴィクトリアと同じ意味を持つ伝説の女王として、その名前が広く知れわたることとなった。

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8.シエナのカタリナ(カテリーナ)(1347年 – 1380年)

イタリア、トスカーナ州シエナ出身の修道女、キリスト教の聖人。裕福な家庭に生まれたが、家族の反対を押し切り、自分の純潔をキリストにささげることを誓った。女子修道院において許されていない、禁欲の行を練習し、自己鍛錬を日課とした。中でも断食はすさまじく、聖餐以外の生涯の大部分を断食していた。病人や貧者を援助することに人生を費やした。

ローマ教皇にも積極的に働きかけた。教皇への300を越える手紙が現存し文学作品としても傑作とされる。しかし最終的には教会大分裂にも絡んでしまったことを生涯悩んでいた。

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 7.エバ・ペロン(エビータ 1919年 – 1952年)

アルゼンチンのファン・ドミンゴ・ペロン大統領夫人。

タレントとして大衆的な人気を得ていたエバはペロンの愛人であった。彼女は自分のラジオでペロンを応援し、ペロンは大統領に選出される。正式にファーストレディーとなったエバは夫の地位を背景に政治に積極的に介入する。女性の参政権導入や、貧しい労働者や貧困層に対する大々的な援助を行い、ブルーカラーを支持層とするペロン政権の安定に大きく貢献した。

しかし、知識階級や富裕層からはエバのいわゆる「バラマキ政策」に批判が向けられた。実際、財政や経済は非常に混乱した。

エバのファンたちはエバを副大統領にと声を上げた。しかしエバはしばらくして子宮癌により死去した。現在エバの肖像はアルゼンチンの紙幣にえがかれている。

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6.ハトシェプスト女王 

エジプト第18王朝の5代目ファラオ(君主)。在位は、紀元前1479年頃 – 紀元前1458年頃。

公的な場所では男装をし、また付け髭をした非常にユニークな女王として知られている。治世は穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。出エジプト記でモーゼをナイル川で拾って育てたのが彼女であるといわれている。2007年には身元不明であったミイラが彼女のものであると科学的に判明された。

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 5.ローザ・パースト(1913年 – 2005年)

アメリカの公民権運動活動家。1955年、全国有色人向上協会の書記だった42歳のローザはバスで白人に席を譲らなかったとして逮捕された。当時のアメリカ南部は白人と黒人を公共機関において分離し差別する条例があった。公共のバスで席が埋まった場合、黒人は白人に席を譲らなければならなかった。

ローザは「屈服させられることに我慢できなかった」と語っている。これを契機にキング牧師らが立ち上がり、モンゴメリー・バス・ボイコット事件が展開された。このボイコットは381日間続きモンゴメリー市は経済的な大ダメージを被った。連邦最高裁は公共機関の人種差別を禁止した。公民権運動はこの勝利によって最高潮に達し1964年の公民権法につながった。

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 4.エカテリーナ(エカチェリーナ)2世

ロシア・ロマノフ朝第8代ロシア女帝(在位:1762年 – 1796年)。無能な皇帝、夫のピョートル3世をクーデターで倒し女帝として即位した。ロマノフ王朝はおろかロシア人の血をまったく引かない彼女であったが、独裁者として君臨し国民を啓蒙した。次々と戦争に勝利しロシアの領土を大きく拡大した。

ロシアの文化や教育に熱心に取り組み、ロシアの美術、音楽、文学などを大きく発展させた。ロシアはヨーロッパの強国、大国としての地位を確立した。

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 3.マザー・テレサ(1910年 -1997年)

マケドニア生まれ。アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニアには正教徒が多い中で珍しいカトリックの家族であった。幼いころからインドで修道女として働きたいと希望していた。1929年にインド・カルカッタの聖マリア学院で地理をおしえることになる。上流階級の子女の教育をしていたが、彼女はいつもカルカッタの貧しい人々を救いたいと思っていた。1946年テレサは「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」との天の声を聞いた。

1948年テレサはついにカルカッタのスラム街に入っていき、スラムの子供たちに街頭で無料授業を行うようになった。1950年には貧しく恵まれない人々のために働く「神の愛の宣教者会」という修道会が設立された。彼女の活動はキリスト教の布教活動とは一線を画しており、ただ、貧しき人のために働くというものだった。

テレサの活動はカトリック教会全体はいうにおよばず世界の人々に大きな衝撃を与えた。1979年ノーベル平和賞の授賞式のインタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」とたずねられ「家に帰って家族を愛してあげてください」とテレサは言った。

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 2.ジャンヌ・ダルク( 1412年頃 – 1431年)

1412年ジャンヌは、バル公領のドンレミの村で5人兄妹の4番目として生まれた。イングランドとフランスの百年戦争において屈辱的な敗戦を重ねていたフランスは、軍事力も国力も瓦解しており、その指導力は失墜していた。

1424年ジャンヌが12歳の時「神の声」を聞き、天使と聖人の姿を幻視した。「イギリス軍を駆逐して王太子をフランス王位に就かしめよ」と。

はじめジャンヌは嘲笑を持って追い返されたが、めげずに、王宮を訪問する許可をもらうため出かけていった。戦況を予言したりなどして、守備隊長に強い印象を与えるとついに王宮でシャルル7世と面会する。ありとあらゆる戦略に失敗し崩壊寸前の絶望的な状況であったことが、無学の小娘の「神の声」などといった普通ならたわごとと流される言葉に耳を傾けさせたのだろう。ジャンヌはいつの間にか唯一の希望と見られるようになっていた。

神の声が後押ししたフランス軍はその後、占領された領土を次々と取り戻していった。一度休戦協定が結ばれたが、数ヵ月後に失効し、その後の闘いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまう。そしてついにイングランドに身柄を引き取られ異端審問裁判にかけられ火刑に処されたのだった。

百年戦争はジャンヌの火刑から22年にわたって続いた。戦争の終結後ジャンヌの復権裁判が執り行われることとなる。復権裁判法廷は1456年、ジャンヌの無罪を宣言した。

 

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 1.ナイチンゲール(1820年- 1910年)

フローレンス・ナイチンゲールはイギリスの裕福な家庭に生まれた。幼いころからありとあらゆる教育を施されあらゆる学問を学ぶ。彼女は上流階級の華やかな世界、社交界にはなんの魅力も感じることはなかった。

彼女は全身全霊を賭して打ち込める聖業を見つけることとなる。それは看護婦であった。しかし当時の看護婦というのは、まともな正業には勤められない無学なアルコール依存症の婆さんと相場は決まっていた。最底辺の召使という地位であった。当然、父以外の家族に猛反発を食らった。

彼女は家族に隠しながら、医療報告書や衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。また家族の隙を見ては、病院や保養所、孤児院、貧民学校、救護所などを見学して回った。

母親や姉と険悪になりながら無給でロンドンの病院に就職する。1854年にロシアとのクリミア戦争が勃発すると、負傷兵の悲惨な状況がジャーナリストによって報告された。彼女は戦地への従軍を大臣に依頼する。ナイチンゲールは修道女と看護婦38名を率いて現地に赴いた。

しかし、現地の軍医長官から彼女たちは従軍を拒否されてしまう。彼女は便所掃除から初めて病院内に割り込んでいった。そこで見たものとは、重症ではない兵士が病院の不衛生からの感染症が原因で死んでいくという現状だった。ビクトリア女王からはナイチンゲールの報告を直接聞きたいとの言葉が届き、ナイチンゲールの地位はあがった。彼女は病院の改革に乗り出した。彼女は統計をとって科学的に改革を進めた(統計学の起源だという)。

ナイチンゲールの的確な衛生改革により病院での死亡率は45%からなんと5%まで下がったのだった。彼女は「クリミアの天使」と呼ばれた(これが「白衣の天使」の由来である)。

クリミアから戻ったナイチンゲールは戦地での激務から心臓発作で倒れ、そして全身の衰弱(慢性疲労症候群)に悩まされ続けた。後半生をほとんどベッドの上で過ごし、生涯独身のまま執筆作業に情熱を傾けた。

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